●巡礼供養塔に幸手商工会の名前が…
権現堂といえば、桜の開花時期には毎年50万人以上の観光客が訪れる幸手を代表する観光地ですが、私たち市民でも権現堂にまつわる知らないことがたくさんあります。例えば、巡礼供養塔に幸手商工会の名前が刻まれていることを知っていましたか? 今回は「柳の会」代表 柳田 恭三さん、前市史編さん室長 浜野 一重さんの御協力により知られざる権現堂の歴史をお伝えします。 > > 権現堂の地図を見る 「柳の会」代表 柳田 恭三さん 「柳の会」のホームページ: http://www6.ocn.ne.jp/~kamaboko/yanagi/
「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」(江戸時代後期、幕府が編纂した地誌)の【権現堂村】の項に、次のようにあります。
「村内に熊野・若宮・白山の権現(ごんげん)を合祀(ごうし)せし旧社あれば、この村名起これり」 (訳)「村の中に「熊野権現社」「若宮権現社」「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。」 また、【熊野若宮白山権現合社】の項に」 「村の鎮守(ちんじゅ)なり、正智院持、この社、古(いにしえ)大社にて村名の起こりしと云も此(この)権現三社なり」 (訳)「村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。」
つまり、このように、村の中に「三つの権現」があったことから「権現堂村」の名前が付けられた、と考えられています。この社の創建は、天正年間(1573〜92)と伝えられていますが、はっきりとしたことは分かっていません。 江戸時代初期には「権現堂村」という村名が確実にあったことが分かります。
《参考》 古文書に見られる最も古い「権現堂村」 慶長20年(1615)「下総国猿嶋郡幸手内権現堂村御見地帳(しもうさのくにさしまぐんさってのうちごんげんどうむらごけんちちょう)」(巻島家文書)
2.その他の「権現堂」
「幸手音頭」の一節に次のような歌詞があります。
♪ハアーエ 昔しゃお江戸を 守った土手も 今じゃ桜のネー アレサ 桜の花の山 ソレ
「桜の花の山」とまで歌われるようになった、その後の権現堂堤の変遷を見てみましょう。
3.権現堂堤(明治時代〜現代)
行幸(みゆき)堤の新築 明治時代のはじめ、高須賀〜外国府間に至る新しい堤防工事が行われました。 その完成後、この新堤を明治天皇が閲覧されました。 これを記念して「行幸堤」の名が賜られ、明治の元勲、岩倉具視の題額がある優美な姿の「行幸堤之碑」が、堤の上に建てられています。
● 第1回 幸手の『横丁鉄道』
● 第2回 明治の元勲が宿泊された由緒ある旅館